お釈迦様       

涅槃図の絵解きをする前に、前知識として、お釈迦様について調べてみました。
何しろ、日本の縄文式時代のことですから、本当はわからないことだらけと思いますが・・・



お釈迦様
釈迦(釈迦牟尼)   略して釈尊、釈迦如来、世尊、仏陀・・・
仏教の開祖
紀元前463年〜紀元前383年
ゴータマ・シッダールタ




写真は、1世紀から2世紀の像とされています。
お釈迦様が亡くなられて400年〜500年たった頃
出来たことから、当時のお釈迦様のお姿ではなく
ガンダーラ美術の偶像となります。

















お釈迦様についての記述 文献引用
入滅後、400年間、釈迦の像は存在しなかった。
彫像のみならず、絵画においても釈迦の姿をあえて描かず、法輪や菩提樹のような象徴的な
事物に置き換えられた。崇拝の対象は、もっぱら仏舎利または仏塔であった。
バラモン教をはじめとする宗教はどれも祭祀を中心に据えており、像を作って守るという習慣が
なかったため、初期仏教もこの社会的影響下にあった。
仏像の成立は、釈迦滅後400年空00年過ぎた頃、すなわち1世紀頃に、ガンダーラ美術の
影響を受けて製作されました。


大乗仏教経典
釈迦の死後400年〜500年して大乗仏教と呼ばれる仏教運動が起こります。
そもそも経典とは、釈尊の説法集であります。
しかし、釈尊は数百年前に亡くなっており、弟子たちがじかに説法を聞いたわけではありません。
そこで、阿弥陀如来、薬師如来・・・観音菩薩等の仏や菩薩を経典の主人公として登場させ、
あたかも釈尊が説法されたかのように語らせ・・・。
しかし、釈尊がじかに語られた記録ではありませんから、その意味では原始仏教とは性格が
異なると思われます。
これらを総称して、大乗仏教経典と称します。
日本の、仏教各宗派のほとんどは、これらの大乗仏教経典を基盤として存在しているのです。







経典
前述で大乗仏教経典を紹介しましたが、それ以前に経典はまとめられています。
弟子たちの間で口伝されてきた釈尊の教えは、編集会議を経て、釈迦滅後ほぼ200年を経過して
集大成されます。
釈尊の教説は、@経、A律、B論に集大成されました。
@経  如是我聞
     「私は、次のように聞きました。」で始まり、
     信受奉行
     「この説教を信じて受け取り、実行します」で終わる形式のもの。
A律  修行僧たちの個人的規則や教団規則が集められたもの。
B論  弟子たちによる教説の研究論文、研究著書のようなもの。
こうした三蔵は、クーラ樹の葉から作られた貝葉に、当時のインド言語で書き残されることに
なります。

天上天下唯我独尊 (てんじょうてんげゆいがどくそん)
ネパールとインドの国境地帯で勢力を持っていたサーキャ(釈迦)族のシュッドーダナ王(浄飯王
・・・じょうぼんおう)と、コーリヤ族出身の王妃マーヤー(麻耶)夫人の第一王子として
紀元前463年に誕生。
生まれた釈迦を、インドラ神とブラマー神が抱きとめ、竜王が産湯を注ぎ、天女が
花と甘露の雨を降らせて誕生を祝った。
釈迦は、そのまま立ち上がると、七歩歩いて、「天上天下唯我独尊」といった。

メモ
多くの人々は、「この世の中で、一番偉くて、尊いものは、自分ひとりである。」と
釈尊が威張られたかのように扱われていますが、この言葉は決して思い上がった言葉で
言われたのではないのです。
この「我」というのは、釈尊だけのことではなく、人間一人一人のことで、
人間誰しも釈尊と同じように「天上天下唯我独尊」なのです。
また、独尊と葉、たった一つの尊い使命ということで、
「われわれ人間には、天上天下広しといえども、たった1つしかない聖なる使命を
果たすべくこの世に生まれてきたのだということなのです。


成道 (じょうどう)
紀元前434年 出家・・・俗世間での生活を捨て、修行に入ること。
紀元前428年 成道・・・さとりを開くこと。

釈迦は、六年間苦行をしたが、苦行ではさとりを得られないと、苦行を放棄、
近隣の村の娘であるスジャータは、森の神に捧げる乳粥を持っていたが、修行者(釈迦)が
いるのを見て、その供物を修行者に捧げた。
釈迦は、乳粥を食べた。
長年お修行で痛めつけられていた体が、力を取り戻した。
釈迦は、立ち上がり、菩提樹の木下で、瞑想に入った。
四十九日後についにさとりを開いた。
ここに、仏陀(釈迦) が誕生した。
釈迦は、生涯で最も偉大な供養のひとつにスジャータの、乳粥を選んでいる。


涅槃 (ねはん)
江戸時代、明治時代初期の釈迦の死因は、背痛となっていた。
しかし、いろいろかのお経等から、現在では、毒茸による中毒とされている。
鍛冶の子である准陀(ちゅんだ)が、供養食を釈迦に用意したが、その毒茸の入った
猪肉を釈迦だけが食し、赤痢状態になり死をむかえた。
他の弟子たちは、釈迦がその毒を理解していて、准陀に猪肉の茸料理を
捨てさせたので、無事であった。
釈迦は、死をわかっていたが、直接的には、毒茸にあたり亡くなられたとされている。









涅槃図に描かれているお釈迦様





















入滅後、400年間、釈迦の像は存在しなかった。
彫像のみならず、絵画においても釈迦の姿をあえて描かず、法輪や菩提樹のような象徴的な
事物に置き換えられた。崇拝の対象は、もっぱら仏舎利または仏塔であった。
バラモン教をはじめとする宗教はどれも祭祀を中心に据えており、像を作って守るという習慣が
なかったため、初期仏教もこの社会的影響下にあった。
仏像の成立は、釈迦滅後400年から500年過ぎた頃、すなわち1世紀頃に、ガンダーラ美術の
影響を受けて製作されました。



世尊の金色身

世尊が最後をむかえる時、
福貴 (プックサ)という阿羅漢の弟子が
世尊に金色の布を奉った。

世尊が金色の布に体を包まれると
お顔から一面の光を放たれた。
仏陀のお顔が異様な光を発する時は
この世の寿命が尽きて
大般涅槃に入られる時と・・・



末期の水

涅槃の時を間近にされた世尊は、弟子の阿難に『水を汲み来たれ』と仰せになった。
阿難は、『たまたま、五百の馬車が川を渡り、水が濁っています。お飲みには、なれません。』
しかし、世尊は、同じ仰せを・・・
阿難が再び川に行くと不思議にも川は澄み渡っていた。
如来の神力に驚嘆した阿難は、さっそく浄水を汲み、世尊に差し上げた。
これが、今日でもいう末期の水の起源とされている。(ただし、別説もあり)






北枕
世尊が北枕をされた理由
「遊行経」によれば、将来、仏教が北方に広く流布することを示されたためとされている。
別の文献によれば、北枕は、太陽崇拝から来ていると述べている。
すなわち、北枕であれば、夕日を眺めることが出来る。これは、西方を信仰する祖先の
思いではとされている。