財賀寺総本堂奉納額


≪表≫
宝暦十一年辛巳二月望日
 豊後州岡城主匠作大尹
 中川源久貞書


※匠作大尹〔しょうさくたいいん〕
=唐の官職名で日本に当ては
めると修理大夫のこと







≪裏面≫
バン

 江戸南八丁堀
 中川修理太夫殿邸
 加治嘯翁源光輔

 當国八名郡橋尾村(現在の豊川市橋尾町)
板施主竹生 荘三良
     同  安兵衛
     同  九良右衛門
     当村白井奥右衛門

キリク
宝暦十二壬午歳五月十七日
 蘇悉地院財賀寺
 住持法印上人昶如記焉
≪裏面追加板≫
金字致惣躰
塗直金具等
成就
 現住法印義英代

天保十年
 亥七月吉日

  塗師屋
   遠州都田村
    富田孫蔵




                                   
中川
久貞
之印
字子
幹号
太堂
烈武先祖以  
封此岡孫要  
保有世々無彊
 
(訓読)
烈武の先祖は、以て此の岡に封ぜらる。孫は保有せんことを要す。
世々(よよ)無彊たれ。
※烈武は激しい武勇。無彊は無疆と同じで、無限の意。

宝暦11年(1761年)2月15日、御釈迦様の亡くなられた涅槃会の日に奉納されました。
豊後州岡城(大分県竹田市)8代城主中川久貞公の書です

当時の財賀寺住持昶如の兄加治光輔が中川家の近侍隊長だった縁で奉納がなされたと思われます。
(そのことは、『力寿碑』に記載があります)

額の文字を頂戴したので、その御礼に当山住持が詩を送りました。その詩は残っていません。
それに対する返詩が当山に残っています。下の写真です。
ところがなかなか読めません。どなたか読んで下さいませんか。
上の額の印章も読めません。宜しくお願いします。














更字子幹 応羅山上人求、書大悲殿額与之、
有謝詩、次韻答之
明珠報我詩 新見龍頷美 不須
雲雨来 忽使人震起  源貞
 
(訓読)
羅山上人の求めに応じ、大悲殿の額を書して之に与ふ、
謝詩有り、韻を次ぎて之に答ふ
明珠、我が詩に報ず
新たに見る、龍頷の美なるを
雲雨の来たるを須(もち)ひず
忽ち人をして震起せしむ
言不□達









源久貞
皆様のご協力で解読されつつあります。ご協力を感謝申し上げます。
特に名古屋大学の塩村耕教授には大変ご助力を頂戴しました。
豊橋市雲谷の普門寺様にも同様の額が奉納されていることがわかりました。
当時の財賀寺住職は普門寺様より入寺しておりますので(1745年)、
両方の寺に奉納されたと思われます。
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