力寿碑
力寿者、三州赤坂邑(むら)長福氏某女也、色美善歌舞、刺史大江定基取為妾、甚愛之、一旦罹病死矣、定基悲哀痛哭、無意埋葬、茫然七日、而夢中有文殊大士之告、因(よって)乃(すなわち)截力寿之舌、以登陀羅尼山峯、而埋其舌、造楼其所、而安置文殊之像、且建一寺、而楼称文殊楼、寺名舌根寺、峯号力寿山、定基遂登叡山為僧、更名寂昭、業成称円通大師、長保中、西飛錫於宋、而従南湖知礼師而学、学増進、宋大臣丁晋公、尊信之、遂留住杭州呉門寺、名高異域、宋景祐元年寂焉、楼寺之始立距今七百有餘歳其楼寺皆毀亡矣、而今之称楼存小堂也、已而現住昶如者即余弟也、哀其衰廃、如斯而後世遂無知者、而請書之石、以伝不朽、因作銘而与之、銘曰
舌与楼寺朽矣 唯不朽者名也 力寿何其夭矣 永斯遺哀情也 寂昭亦已逝矣長斯慈月明也
  安永五丙申秋七月望
 豊後州岡臣故近侍隊長 加治光輔 志
 三河州陀羅尼山財賀寺現住 権大僧都伝燈大阿闍梨法印上人 昶如自筆以植


(解説文)
力寿は三州赤坂邑(むら)長福(よし)氏某の女(むすめ)なり、色美しく歌舞を善くす。刺史大江定基取って妾となし甚だこれを愛す。一旦病にかかりて死す。定基悲哀痛哭して埋葬する意なし。茫然七日にして夢中文殊大士の告あり。因(よって)乃(すなわち)力寿の舌を截(き)り、以て陀羅尼(だらに)山の峯に登りその舌を埋め其の所に楼を造り文殊の像を安置し且つ一寺を建つ。而して楼を文殊楼と称し、寺を舌根(ぜっこん)寺と名づけ峯を力寿山と号す。定基遂に叡山にのぼり僧となり名を寂(じゃく)照(しょう)と更(あらた)む。業成(な)って円通大師と称す。長保年中、西宋に飛錫(ひしゃく)し、南湖の知礼に従って学び学増進す。宋の大臣丁(てい)晋(しん)公(こう)之(これ)を尊信、遂に留って杭州呉門寺に住し、名異域に高し。宋の景祐元年寂す。楼寺の始めて建つは今をへだたる七百有余歳、其の楼寺皆こわれてなし。而して今これ称と楼するは小堂のみ。現住昶如(ちょうじょ)は即ち余の弟なり。その衰廃をかなしみ、かくの如くして後世知るもの無けんと、而して請うて之(これ)を石に書き以って不朽に伝えんとす。因(よ)って銘を作り之(これ)を与う。銘して曰(いわ)く
舌と楼寺は朽ちたり 唯(ただ)朽ちざるは名なり 力寿何ぞその夭(わかじに)なる 永くこの哀情を残し 寂照すでにゆき 長(とこし)へにこの慈月あきらかなり

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