新編『豊川市史』第1巻より関連部分一部抜粋(教育委員会市史編纂室より許可をいただいております。)

第四節 鎌倉期の社会
一 地方文化の拠点財賀寺
顕密仏教と財賀寺
 かつての中世史研究では、鎌倉時代になると「鎌倉新仏教」と称される新しい諸宗派がおこり、それまでの天台宗・真言宗は次第に後退するという鎌倉新仏教論が通説とされていた。しかし、いわゆる新仏教諸宗派が教団としての形態を明確にするのは南北朝.室町時代になってからであり、それ以前においては、およそ十世紀代に完成し、かつては「旧仏教」と称された顕密けんみつ仏教と総称される、密教を共通項として統合された仏教諸宗(法相ほっそう・花厳けごん・律りつ・倶舎くしゃ・三論さんろん・成実じょうじつの南都六宗と天台・真言の二宗)の全体が正統仏教であったことから、「新仏教」は顕密仏教の改革派・異端との評価が与えられることとなった。そして、中世社会の理解にあたり、武士と「新仏教」に基軸を据え鎌倉幕府の成立期に中世社会形成の画期を求める旧来の説は影をひそめるようになり、現在では、荘園制が確立し院政という政治形態が出現した十一世紀末・十二世紀初頭に中世社会形成の画期を求める理解が定着しつつある。
 ところで、第五章で紹介されている白鳳.奈良時代創建の古代寺院は、いずれも平安時代後半になると衰退し、その法灯が中世にまで継続することを確認できる寺院は無い。一方で、旧豊川市域には鎌倉時代以前の開創伝承をもつ現存寺院がいくつかある。例えば三明寺は大宝年中(七〇一.七〇三)に文武天皇の勅願により開創、財賀寺は神亀元年(七二四)に聖武天皇の勅願により行基が開創し弘法大師が中興、西明寺は長徳年間(九九五.九九八)に三河国司大江定基が草庵を結んだ六光寺が起源となった、などである。このうち同時代史料や遺構・遺物から鎌倉時代に確実に存在したことが確認できる現存寺院は財賀寺のみであり、市域の中世社会を理解する上では欠かせない寺院と言える。
 財賀寺は、三河守護安達盛長が建立したとされる三河七御堂(金蓮寺弥陀堂=吉良町、丹野御堂たんのみどう=蒲郡市、赤岩寺せきがんじ弥陀堂=豊橋市、普門寺ふもんじ観音堂=豊橋市、長泉寺ちょうせんじ=蒲郡市、鳳来寺弥陀堂=新城市、財賀寺観音堂=豊川市)伝承の一つに数え挙げられているほか、中世前期の成立が確実視される『瀧山寺縁起』(滝山寺=岡崎市)や東三河各地に残る大般若経・神社棟札などの中世の同時代史料にもその名がみえることから、財賀寺が鎌倉時代から室町時代にかけて三河の各所の社寺と関わりを持ち、地方文化の拠点をなした大寺院であったことが知られる。
最盛期の財賀寺
 中世の財賀寺を復元する試みとしては、文献史料や寺院に伝わる美術工芸品等の研究によるアプローチがこれまでにもなされてきたが(桜ヶ丘ミュージアム編『財賀寺その歴史と美術』等)、最近では中世の山寺としての財賀寺旧境内の調査(坊院跡等の現地踏査・略測・遺物採集など)による考古学的な調査研究も進展し、鎌倉時代における最盛期の財賀寺の様相の一端が明らかとなってきている(岩原剛ほか「財賀寺旧境内の調査―三河における山寺の研究T―」『三河考古』20)。ところで、平安時代に遡る財賀寺の姿については、像造が十一世紀末に遡る可能性のある金剛力士立像(重要文化財)や十二世紀代の像造と推定される県文化財の阿弥陀如来坐像や宝冠阿弥陀如来坐像(末寺舌根寺ぜつこんじの旧本尊と伝えられる)といった寺蔵資料から、平安時代後期における寺院の存在がこれまでにも確実視されていたが、近年、現本堂(観音堂)のある中尾根周辺から九世紀後半から十世紀代の灰釉かいゆう陶器の破片が採集され、既に平安時代中期に中尾根上部付近に小規模な山寺が構えられていたであろうことが明らかとなってきた。
 そして、現境内地周辺の山林内に展開する坊院ぼういん跡と推定される平場群や中世墓の広がり、またそこから採集される山茶碗をはじめとする中世陶器の出土分布から、平場群が広域に展開し山内で坊院が活発な活動を行った時期が十二世紀後葉から十三世紀代と推定されており、その背景は不明ながら、十二世紀代に寺勢が拡大していった様子がうかがえる。
    図7-9 財賀寺境内概略図(『三河山寺研究会ミニシンポT 三遠の山寺』より)
 十二世紀末には背後の観音山山頂に観音山経塚(建久八年<一一九七>に「三河国中条ちゅうじょう郡」で書写された紙本朱書経八巻が銅板製経筒(口絵9)・陶製経筒外容器に納められていた)が築かれたほか、旧境内にも経塚が築かれていたことが判明し、旧境内からは鎌倉時代後期の密教法具の優品(銅製飯食器おんじきき写真7-3)も出土するなど、平安時代末から鎌倉時代にかけての財賀寺の最盛期の隆盛ぶりを出土品からもうかがうことができる。そして、十二世紀代の経塚造営に始まる財賀寺旧境内の中世墓群の展開は、かつて出土した多数の蔵骨器(口絵10)や石塔の年代などから、戦国期までその造営が継続していたと推定され、東谷を中心とする中世墓群の規模の大きさから、当時、財賀寺が納骨供養を旨とする霊地・霊場であった可能性も指摘されている。
    写真7-4 木造宝冠阿弥陀如来坐像(財賀寺蔵)
    写真7-3 銅製飯食器(財賀寺蔵)
 財賀寺は、現在は高野山を本山とする古義真言宗の寺院で、山号を陀羅尼山と称するが、嘉慶元年(一三八七)の葛川惠光院かつらがわえこういんについての某請文(広島大学蔵)には「山門惠光院末寺三河国財賀寺」とあり、「山門」が比叡山延暦寺を示すことから、当時財賀寺は天台宗寺院であったことが明らかである。また十二世紀代の寺蔵の宝冠阿弥陀如来坐像(写真7-4)が天台宗常行三昧堂じょうぎょうざんまいどうの本尊形式であり、やはり天台系の要素を認めることができる。ただし、当時顕密仏教は各宗それぞれ独自の教理を持ちながらも、密教を共通に包摂するが故に、各宗派は競合しつつ併存し、しかも顕密仏教全体として相互に流動性を有していたことを考慮すれば、財賀寺においても周囲の寺々だけでなく、広く東西の諸寺ともネットワークを構築し、僧侶の往復が盛んに行われたと推定されることから、財賀寺の山内組織すべてが中世期を通じて宗派が固定されていたと考える必要はなく、流動的であった可能性も視野に入れておく必要があろう。
中世社会の中の財賀寺
 現地踏査により、財賀寺には坊院跡と推定される多数の平場群が存在することが明らかとなったが、中世から近世にかけての文献史料にも、財賀寺の坊院の名(坊舎名あるいは僧侶名)を多数みかけることができる。最も古いものは先に紹介した『瀧山寺縁起』の嘉禄元年(一二二五)の滝山寺本堂再建に伴う本尊の移転供養の記録で、請僧の一人に「財賀寺大音坊」の名を見ることができる。十四世紀代になると、白鳥神社所蔵の大般若経の巻三五七の康暦二年(一三八〇)の奥書に「財賀寺東谷得明坊」、また旧石巻神社大般若経の応永二年(一三九五)の奥書に「財賀寺西谷慈親坊」の名がみえ、当時、財賀寺の僧が東三河諸社寺の作善事業に深く関わっていたことがうかがえるとともに、山内組織として財賀寺には西谷、東谷と呼ばれる「谷」組織があったことが示唆され、中尾根の両側の谷筋に展開する坊院群を「西谷」「東谷」に比定することも可能である(図7-9)。これは坊舎が北谷・南谷・東谷・西谷に分かれていた同時期の天台宗寺院真福寺(岡崎市)の状況(『新編岡崎市史中世2』)とも似通い、三河における中世山寺の山内組織を考える上での好事例の一つとされる。
 ところで、図7-10に示したように、財賀寺には戦国期を中心に多くの名称の坊院が存在したことが寺蔵文書や近在の神社棟札等から確認できるが、十五世紀以降になると「谷」組織をうかがわせる記録は見あたらなくなる。十六世紀末には寺蔵文書の「供僧田本帳」や「三河国宝飯郡財賀寺田帳・畠帳」等から一〇もの坊院があり、それぞれに帰属する領地があったことが知られるが、秀吉の検地によりその所領を失ってその多くが衰退し、江戸時代末まで存続が確認できるのは福泉坊(現在の客殿南側の駐車場辺りに所在した)のみである。このように、十四世紀以前の記録はほとんど残っていない
 図7-10 史料にみる財賀寺坊院の消長(『財賀寺その歴史と美術』挿図を加筆修正)が、中世前期にも財賀寺には本来数多くの坊院・坊舎が存在し、「西谷」「東谷」といった山内組織としてのまとまりを持ちながら、他の中世諸寺院のように坊院が寺の運営を支えていたと推定される。
 また、寺蔵資料等から十六世紀半ば以降、財賀寺の一院である真如院と桜井寺(岡崎市)が白山先達職の権利をめぐり激しく争ったことが知られ、結果的に三河国の白山先達職は桜井寺に収斂することになったが、財賀寺の一院が中世後期にも旺盛な経済活動を行っていた証とされる(浦野加穂子編『額田―その歴史と文化―』)。
 なお、永禄三年(一五六〇)の寺蔵の今川氏真判物にみられる「八幡供僧・国分寺供僧・七仏供僧・一宮供僧・惣社供僧・稲束平尾山王供僧」の記載も興味深い。供僧くそうとは寺院において神仏に給仕する僧の職をいい、住坊や田畑を持つことが許されていたことから、中世後期には財賀寺からこうした供僧が諸施設に派遣されたか、坊院に所属する僧がこうした諸施設の供僧を兼ねていたと考えられ、当時の東三河平野部の豊川右岸域において財賀寺が一定の宗教的な勢力を保持した証とされる。そして一宮(砥鹿神社)や国分寺(十六世紀初頭に再興された国分寺)、八幡宮、総社とのつながりから、中世後期に牧野氏を有力檀越に迎える以前の財賀寺には、近在の国衙勢力が関与していた可能性も指摘されている(岩原ほか前掲著書)。
 このように、近年の調査研究により、近世に著された財賀寺の縁起『三河国陀羅尼山略縁起』には記されなかった中世財賀寺の姿が垣間見られるようになってきた。財賀寺における九世紀後半から十世紀代の小規模な山寺の存在は、南方約四キロメートルに所在する三河国分寺に付属する山林寺院と評価するむきもある(石川智江「弓張山脈における古代山林修行の様相」『三河考古』20)。やがて律令制の崩壊とともに新たに台頭した国衙勢力等を背景に、十二世紀から十三世紀にかけ霊地・霊山信仰と結び付き財賀寺が山寺としての最盛期を迎えた可能性を指摘できるが、残念ながらそれを具体的に示す史料は今のところ存在しない。よって、今後も総合的な視点から財賀寺に関わる調査研究を進め、遺構としての坊院群や中世墓の変遷、寺院の支援母体であった檀越との関係や中央とのつながり等を明らかにし、中世財賀寺の実態解明が進むことが期待される。

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