茶の間の豊川史談
    三河守大江定基が賭けた夢
                              豊川市史編集委員
                              市教委社会教育課勤務
                                     長 谷 川 高 雄

 はじめに
「誇りあり、この歴史、穂の国の由緒(ゆかり)をつぎて……」これはご存じのように「豊川市歌」冒頭の歌詞である。誠に然り、豊川市の誇るべき歴史は、白鳥台地に三河国の政庁、つまり国府(こくふ)が置かれたことから始まり、続いて近くの八幡(やわた)台地に国分寺、国分尼寺、八幡宮等が建てられて三河国の中心としての歴史が展開し、その後各地域に亘って近世迄の歴史が続く。そうした長い間の歴史の詳細は「豊川市史」(昭和四八年刊)にゆずることにし、市史に書くべくして書かなかった三河の国司大江定基のことを諸資料によって談しさせていただくが浅学な点はお許し願いたい。

 三河の国府
 穂の国の国造(くにのみやつこ)が支配していたこの地方も、大宝律令制定〈七〇一〉に伴って境域も確定し三河の国となった。
 地方官制に基づいて中央から国司が派遣され、その下に郡司、里長(のちの郷司)がおかれて政治が行われるようになった。国司が政務を執る役所(国衙)のある所が国府(こくふ)で府中(ふちゅう)とも呼んだ。三河の国府は白鳥台地にある三河国総社の南あたりにあった。というのは、国衙着任の国司は、政務を執る前に三河国内の主な神社(三河国内神名帳所載社)を巡拝するのがならわしであったが、後に国府の中に一社を建て、国内諸神をここにまつって巡拝に代えるようになった。こうしたことから国府は今の総社の南あたりにあったとすることができる。
 大宝律令の地方官制によると三河は上国だったので、中央から国司として守(かみ)(長官)一人、それに加えて介(すけ)(長官補佐)一人、據(じょう(ママ))(公文書)一人、目(さかん)(書記)三人の計七人が派遣された。

 三河守大江定基
 三河守として国府に着任した国司の名は「続日本記」「三代実録」等に残されている。その中で平安時代の中頃(一条天皇の頃)三河守となった大江定基は国司というよりも名僧、高僧として当時の国内は勿論、宋(中国)の国にまでその名を博した人である。次にみるように平安時代の書物、或はそれ以降の書物に愛妾力(りき)寿(じゅ)とのロマンも含め、仏道精進のすえ高僧にまでなったことが書かれている有名人である。しかし、今の人達に余り知られていないのは残念なことである。
 (○は本文中の資料番号)
古代(平安時代)
@今昔物語 A続本朝往生伝 B扶桑略記 C宝物集 それに宋代の史書である宋史
中世
E私聚百因縁集 F元享((ママ))釈書 G三国伝記 H帝王編年記 I一代要記 J職原抄  K続後撰和歌集 L万代和歌集 M貞応海道記 N東関紀行 O発心集 P宇治拾遺物語 Q古事談 R十訓抄 S古今著聞集 ?撰集抄 ?謡曲石橋
近世(江戸時代)
?東国高僧伝 ?本朝高僧伝 ?三河雀 ?参河国名所図絵 ?宮嶋伝記 ?三河国二葉松 ?三河国聞書 ?三河国古蹟考 ほかに「力寿碑」?
 定基が賭けた夢
 大江定基は参議左大弁式部大輔斉光(ただみつ)の三男で「慈悲有(あり)テ身ノ才人に勝(まさり)タルケル」@「文章に長じ」Aというように、情にあつく文才にもたけた俊才で、しかも和歌をよみ「続詞歌和歌集」「玄々和歌集」などにも彼の歌が残されている。
 お家柄に生れ俊才であった定基は、都の大学で学んだあと式部省の行なう国家試験にパスして「栄爵ノ後、参河守ニ任ズ」Aと書かれているように、従五位下勲六等で三河守に補せられた。
 国司の任期は、はじめ六年であったが彼が国司となった頃は任期四年で、妻子を都に残しての単身赴任が原則であった。
 三河守となった大江定基は前述の六人の役人と共に平安京から三河の国府に向かった。頭の中に役人としてのエリートコースを描きながら、幾日もかけて宿駅を馬で乗り継いでようやく三河の赤坂に到着、ここで長者であり旅籠(はたご)経営の宮路弥太郎長福(ながよし)家に一泊して、旅の疲れをとって清新な気分で国衙入りとしたのである。
 長福家では都からの役人ということで、家中あげて歓待これつとめた。とくに役人達の足洗いから酒宴の席まで心からサービスにつとめたのは、純情可憐な長福の娘力寿(りきじゅ)(力殊)であった。年の頃は十四、五才であったろう。田舎には稀なすばらしく美しい娘で「色美しく歌舞を善くす……力寿何ぞその美しうなる」?というように酒宴の席ではハンサムな国司定基を横目で見ながら歌をうたい、舞をまって心からの歓待をして役人たちを慰め喜ばしたことであろう。上座にすわって見ていた定基は、身のこなしの美しい姿の力寿につい一目惚れしたが、しばし盃を持ったままこんなことに溺れてはならぬ。やがて中央役人をめざしている自分だ。着任後は我に返ってつとめなくては≠ニ力寿にほだされてゆるむ心を引き締めたのであった。

 哀情ロマン
 国衙着任の彼は、翌日から事務引継ぎや宝飯郡内の各社巡拝スケジュールに追われた。(この頃は国府の中に総社を建て、国衙所在の宝飯郡を除いた七郡の各社を勧請奉祀していた。)ようやく落着いて政務にとりかかった彼は、赤坂の旅籠で歌って舞を見せてくれた力寿を思い浮かべた。そして「国務ノ間、赤坂ノ力寿ト云う遊女ニ狎(な)レテ契深カリケルガ……」Gとあるように情にあつく情にもろかった彼は、ついに政務のひまひまに赤坂通いをするようになった。そして長福に訳を話して「取って妾となし甚だこれを愛す」?ようになった。こうして力寿はこの上ない幸福を感じつつ定基のためにまごころこめてつくしたことだろう。
 さて、定基に愛されて世話女房となった力寿とはどんな女に見られていたか。前記の書物には「遊君」M?侍妾?妻妾Mなど色々な形容で出ており、「群書類従」には「赤坂傀儡女」と極端な表現をしている。しかし定基にとっては都に残した妻にもまさる「侍妾」だったのではなかろうか。力寿が甚だ愛された様子は「参河国名所図絵」上巻に出ている「定基朝臣、力寿と船山遊宴の図」で或程度想像することができよう。船山というのは総社の西北にある船山古墳あたりで、ここに定基の館(やかた)があったとされているがその場所は定かでない。
 古来美人薄命といわれているが、力寿もこれにもれず、間もなく急病にかかり、定基の手厚い看病の甲斐もなく「無常ノ風、妙ナル花ノ姿ヲ吹キ、有漏ノ霧、美ナル月容ヲ陰シヌ」Gとなった。この愛妾力寿を失ったのは着任後三年目の寛和二年(九八六)、二五才の時であった。思いもよらぬ力寿の死によって、しばし茫然となった定基は「悲哀痛哭して埋葬する意なし」?の悲しみ落胆ぶりであった。
「イダキテフシタリケルホドニ、七日ニナリケルニ、クチヨリ虫共イデキケレバ……」Cとあるように、死後七日にもなれば美しかった力寿も変わり果てた姿になってくる。七日目の夜、力寿に添寝していた定基の枕元に、定基の念持仏である文殊(もんじゅ)菩薩(ぼさつ)が現われて力寿を埋葬せよ≠ニのお告げがあった。翌日、定基は文殊菩薩のお告げに従って「乃(すなわち)力寿の舌をきり、以て陀羅尼(だらに)山の峯に登り、その舌を埋め其の所に楼をつくり文殊の像を安置し且つ一寺を建つ、而して楼を文殊楼と称し、寺を舌根寺と名づけ、峯を力寿山と号す」?とあるように、力寿供養のため財賀寺の峯続きに力寿山舌根寺を建立した。
 遺骸は父長福が引き取って埋葬し、その菩提を弔うためそこに寺を建てた。赤坂の長福寺がそれで、寺の裏手に女郎石といわれる自然石のたっている所が埋葬場所だという。

 諸行無常の発心
 愛妾力寿を失った定基は一年余り政務をとったが、この間精魂を傾けてという風にはいかなかったではなかろうか。役人として一身の栄達を志していた彼であったが、力寿の死によって心境が一変し「世ノ中ヲウキモノニオモヒ、愛別離苦ヲカナシムデ」C仏道に入る決心をおこさせた。「乃(すなわち)冠  ヲ割(さ)イテ」F夢みた役人渡世をあきらめたのである。
 四年の任期を終えた定基は、力寿とのなつかしい契りの思い出を三河に残して都に帰った。都では藤原氏の摂関政治の時代で兼家が摂政であった。帰京翌年すなわち永延二年(九八八)四月、意を決した定基はついに出家し「東山の如意輪寺の修行僧」Cとなり、名を寂昭(じゃくしょう(ママ))とあらためて法衣をまとう身となった。その頃尾張の国では郡司、百姓らが、国司藤原元命(もとなが)の悪政を中央に訴えるという事件がおきていた。この事を耳にした寂昭は、三河での四年間無常の心の痛手こそあれ、事なく政務がとれたことを仏陀に感謝すると共に、三河での思い出を心新たにしたことであろう。
 その後求法一途な彼は、名僧源信(恵(え)心(しん)僧都(そうず))をたずねて比叡山に登り、乞うてその弟子となった。当時の仏教が末法思想から浄土教へと動きつつあるなかで専ら修行につとめ、仏道をきわめ「早クモ講学ニ名アリ」Fとあるように読師、講師としてその俊才ぶりを発揮し、三河の入道、三河の聖(ひじり)として有名になった。
 比叡山での修業中、長徳元年(九九五)愛妾力寿の菩提供養のため、恵心僧都彫刻の弥陀三尊像をいただいて三河へ帰り舌根寺の本尊とし、また修業後の余生を力寿の眠る舌根寺の近くで送ろうという考えがあったのか、かっての館近くに六光寺を建てて比叡山にもどった。時に三四才。(六光寺は後になって西明寺となる。附近に六光寺の地名がある)

 入宋
 「往生要集」を著わした源信は「台宗問目二十七条」をつくった。これを寂昭に持たせ当時の宋の名僧南湖の智礼(ちれい)師に答釈を頼むことにした。その頃は一般人の渡航は禁止されていたが、僧侶が求道進礼のために宋に渡ることは許可されていた。恵心僧都の頼みを受けて留学僧となった寂昭は長保四年(一〇〇二)七月離京、翌年八月二五日肥前の国から船で宋にむかい、「九月一二日大宋国明州府に著いた」Iのであった。宋史には「景徳元年其国僧寂昭等八人来朝」と書かれて寂昭の名が出ている。宋に着いた寂昭は、源信から頼まれた「台宗問目二十七条」を南湖の智礼法師に差し出すと「礼、昭ヲ延(むか)エテ上客ト為ス」Fとあるように丁重にもてなされた。礼の答釈が出来たので持ち帰ろうとしたが、礼から留学をすすめられたので、答釈は他の留学僧によって恵心僧都のもとへ届けられた。
 円通大師となる
 寂昭は其の後も「南湖の知礼に従って学び、学増進す、宋の大臣丁晋公(ていしんこう)之を尊信」?するまでの立派な僧になった。そして丁晋公の懇情によって「遂に留りて杭州呉門寺に住し、名異域に高し」?というように呉門寺の住職となった寂昭は、高僧としてその名声を異国に博するようになった。かくて時には望郷の念にかられ乍らも、宋に留って仏教界に貢献すること三十一年間、やがて老衰して死に直面するや仁宋帝から「詔して円通大師と号し、紫方袍を賜う」Dて栄誉此の上なく、長元七年(一〇三四)七三才を以て異国宋朝で静かに入滅した。(日本史年表、三省堂編による。Hでは卒年七七才)
 さて、鎌倉時代に書かれた「貞応海道記」の著者はこの豊川地方を通った時の紀行文の中で「巨唐ニ名ヲアゲ、本朝ニ誉ヲ留ル、上人(しょうにん)誠ニ貴シ」と書いて定基に此の上ない賞讃の言葉を与えている。

 力寿碑
 三河守として着任した定基が僧寂昭として、そして「宋に飛錫」?して円通大師までになった彼の生涯の心のふるさとは、三河の国府であり、力寿山舌根寺であり、六光寺であったろう。はっきりいって豊川市が彼の生涯の故郷になっていたといっても過言ではなかろう。
 彼が異国で入滅後幾百星霜が過ぎ去り、やがて江戸時代中頃になると、定基と力寿のことなどは遠い?夢物語になろうとした。力寿山舌根寺は既に廃寺となり、六光寺も西明寺とかわり、国府も跡かたもなくなって、こうしてすべてが忘れ去られようとしていた時、財賀寺の昶如(えいじょ(ママ))和尚が安永五年(一七七六)廃寺となった舌根寺参道の入口に力寿碑を建てて、定基・力寿のことを郷土の誇りとして永く後世に残そうとした。財賀町字栃ノ木、古い山桜の根元にある碑がこれで、今も道行く人々にありし日の定基・力寿の哀情ロマンをささやき続けている。碑は風化のため読みにくいが、漢文で次のように刻まれている。

  力寿碑
力寿者、三州赤坂邑(むら)長福氏某女也、色美善歌舞、刺史大江定基取為妾、甚愛之、一旦罹病死矣、定基悲哀痛哭、無意埋葬、茫然七日、而夢中有文殊大士之告、因(よって)乃(すなわち)截力寿之舌、以登陀羅尼山峯、而埋其舌、造楼其所、而安置文殊之像、且建一寺、而楼称文殊楼、寺名舌根寺、峯号力寿山、定基遂登叡山為僧、更名寂昭、業成称円通大師、長保中、西飛錫於宋、而従南湖知礼師而学、学増進、宋大臣丁晋公、尊信之、遂留住杭州呉門寺、名高異域、宋景祐三年寂焉、楼寺之始立距今七百有餘歳其、楼寺皆毀亡矣、而今之称楼存小堂也、已而現住昶如者即余弟也、哀其衰廃、如斯而後世遂無知者、而請書之石、以伝不朽、因作銘而与之、銘曰
舌与楼寺朽矣 唯不朽者名也 力寿何其夭矣 永斯遺哀情也 寂昭亦已逝矣 長斯慈月明也
  安永五丙申秋七月望
 豊後州岡臣故近侍隊長 加治光輔志
 三河州陀羅尼山財賀寺現住 大僧都伝燈大阿闍梨法印上人 昶如自筆以植

〈補説〉
 力寿山舌根寺は、宝暦年間(一七五一〜一七六四)に廃寺となった。本尊の阿弥陀如来(木造、等身大坐像)は本寺の財賀寺におさめられ、現在大師堂にまつられている。(昭和四七年一一月三〇日市指定文化財)
 また、定基の念持仏であった文殊菩薩は本寺におさめられた。いま池のほとりにある文殊堂に安置され、智恵の文殊さまとして信仰されている。

〈参考〉 定基年譜
 九六一、応和元 定基生る
この頃、空也西光寺創建
 九八六、寛和二 愛妾力寿を失う
藤原兼家摂政となる。源信「往生要集」を宋に送る。
 九八八、永延二 四月出家、寂昭となる。
尾張国郡司、百姓ら国司藤原元命の非法を訴える。
一〇〇二、長保四 七月離京
一〇〇三、長保五 八月入宋
一〇〇八、寛弘五 藤原道長、寂昭に書を送る。
一〇一七、寛仁元 源信没(七六才)
一〇三四、長元7 寂昭没(七三才)
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