見 聞 録

このページには、格闘技のみならず、一般教養、政治、レジャーなど実際に見たり聞いたりした事をレポート的に載せていきたいと思っております。
かなり個人的意見もあるかと思いますが、まぁ、軽い気持ちで見逃してください。


好きな言葉・・・
人として生まれてきた喜びを感じられることの一つに言葉があります。感情や愛情を伝えることの出来るすばらしい能力です。でも時に人はこの言葉というツールの使い方を間違えてしまい、気持ちが正しく伝わらなかったり、傷つけてしまったりします。
相田みつをさんの本の中に「のにを言ったら愚痴になる」という言葉がありました。短くて単純なこの言葉が僕は大好きです。誰かのために「何かをしてあげたのに・・・」とか「こんなに・・・だったのに」等、確かに「のに」をつけると殆どが愚痴になります。その言葉を使うとき、そこには自分の気持ちの傲慢さや相手を見下したような気持ちがあります。この言葉を知ってから愚痴が出そうになるとこの言葉を思い出します。まだまだ未熟者で相手にイライラしたりすることが多いですが、これからも素敵な言葉を見つけながら人としての尊厳をもっていけたらいいなと思います。

自分を知ること・・・
自分を知ることは、とても大切なことです。人と人との関係を持つ中で他人を知ることも大切ですが、自分の事を第三者的にとらえることもまた大切なことです。僕は自分がもてた事が無いので外見的にいい男では無いことを知っています。だからこそ性格はいい男でいようといつも思います。高校生の頃まで人のことには関わらず、自分さえ良ければ位の気持ちで人と触れ合うことすら好きではない性格でした。でも大学時代に一人暮らしをして自由な事、不自由な事、人を愛すること、人に愛されること、愛する人を失うことなど・・・いろいろな事を体験し少しづつ自分を見失いながらも自分の本質に気がつきました。格闘技に触れたのは空手が最初で「喧嘩の道具になれば・・・」位の気持ちでした。ブランクがいろいろありましたがまた、今格闘技に触れています。ただ単純に強くなりたいと思っていた頃、そして誰よりも優しくありたいと思う最近。心のそこから優しくなれる人が本当は一番強いのではないかと思います。

ニュース・・・
毎日毎日ニュースを見ていると「よくもまぁ毎日毎日殺人事件とか事故とか虐待とか・・・」人の死ぬニュースが多いです。いつから日本はこんなになってしまったのでしょうか?そんな中でも一番心を痛めるのが「虐待」です。相手は自分の子供であったり、愛する人の子供であったりします。僕は同じ境遇になったことがないのでもしも相手の連れ子を愛せるかといわれれば正直わかりません。理性では愛せると思います。が本音の部分では相手次第というのが一番近いかもしれません。「愛する人の生んだ子供だから」と本心から思えるのか・・・。
僕はこんな風に考えます。男って言うのは意外と単純です。女の人からの愛情が子供よりも自分にあると感じることができれば女性も連れ子も愛せると思います。でも自分よりも連れ子の方に愛情があると思えたら憎しみになり虐待へとなるような気がします。自分の子供を虐待する人は自分の子供よりも相手の事を中心に考え、母親よりも女としての自分を優先させてしまうんでしょうね。愛するが故の結果だとしたら誰もが虐待する方になってしまうかもしれないという事何でしょうか・・・。

幸せの法則・・・
どんな人にも幸せになりたいという希望があると思います。幸せを感じるレベルは人それぞれ違います。お金がいっぱいあること、物がいっぱいあること、健康でいられる事、好きな事が出来る事、好きな人といられる事などなどです。でも僕はこう考えてます。幸せの度合いは違っても人それぞれに平等に幸せは訪れると思います。ずっと不幸だけの人がいないようにずっと幸せだけの人もいません。ひどく傷つくような辛い事があった人は、その分大きな幸せが訪れると思います。不幸な事と幸せな事は同じだけ訪れると思います。ただそれを幸せだと感じないで見過ごしてしまうかもしれません。ただぼーっと生きているのではそのチャンスを逃してしまいます。幸せになるために素直な心で幸せになる努力をした人が幸せになれると思います。誰かを傷つけたり、人を陥れたりする人は、その人にしたのと同じ、もしくはそれ以上の不幸が訪れると思います。
優しい気持ちで生きていけたらきっと幸せになれると思います。

言葉・・・
人と人とを結びつけるのに言葉は大切です。使い方一つで楽しくも不快にもなります。”口で言わなくてもわかる”なんていうのは相当な条件がそろわないと絶対に無理です。その場の空気とか・・・その状況にもよりますが、多くの場合、それは詭弁、戯言でしかなく、本当の人の心は言葉を交わさないと理解しあえません。意見がぶつかりあるのはお互い歩み寄ろうとするからです。自分の意思が有り、それを尊重しようと思うからこそ言葉を交わします。しかしながら、それを拒否する(される)事もあります。話す以前に受け入れないという事です。非常に残念な事ですが現実にそういうことがあります。そうなったとき、放っておくしかできることは無いのでしょうか?僕はこれからもできるだけいろんな言葉で自分を理解してもらい、相手の事も理解していきたいと思います。勝手な考えかなぁ・・・。

疑問・・・
いつも一緒に練習している人が”試合をする”事になったらみんなはどんな感情を持ちますか?僕は自分のチームの人が試合に出ると応援とかセコンドとか何か力になって手伝えないかなぁ・・・などと思います。そうしたら試合には出かけようとか必然的にそう思います。たとえば何かの都合で自分が行けなかったら”申し訳ない”という感情があふれ出ます。個人差はあると思いますが一緒に練習をしているとそういうのがごく普通だと思うのですが・・・試合の予定を口にしても「行きます」という人が本当に少ないです。それは僕の立場から強制的に言う事ではないと思ってます。強制してイヤイヤ行っても本当の選手の力にはならないからです。自分が選手として試合に臨んだときに誰も来てくれなかったらどんなに辛く、弱気になるでしょう。人の身になって考えると答えは出ると思うのですが・・・僕の考えは、間違ってるのかなぁ・・・

健康について・・・
人は健康な時は何かと気が付きにくいのですが家族の中で誰かが病気になると本人以外にもみんなが大変だと実感しています。此処の所母が入院してしまい、自分の生活の中に母に分担してもらっていた事や仕事上でも母の事務作業が他の人でカバーする毎日です。病院へも行く時間を作り、生活パターンがまるっきり変わりました。ただ、今手探りで動いていますがいずれ父や母が亡くなった時もこうなるんだと考えながら過ごしています。普段は全然気にしてなかった”健康”が身にしみて感じてます。もし、僕が病気になったら・・・とか考えると家族の事が気にかかります。防げる病気や検診は出来るだけ受けて健康でいられるように気をつけたいと思います。

時々思うこと ・・・
人には適材適所ということがあります。自分の好きな事をやって生きていけたらどんなに幸せなんだろう・・・とか思ったりします。今の仕事が僕にとってあっているのかどうかわからずにもう20年近くやってきました。知らない間にベテランの域に入っています。でも僕はそれにうぬぼれることなく初心を忘れないように丁寧に仕事をこなしていこうと思ってます。この年になってもまだまだ勉強しなくてはならない事が多くきっとこれから先も同じ事を繰り返していくのかなぁと思います。僕はどんな仕事でもそれで生活をしている人はみんなプロだと思います。僕は今の仕事で食べ、買い、生活している営業のプロです。プロの人は驕り高ぶることなくずっといられる人だと思います。政治家や公務員の人たちや(全部とは言いませんが・・・)いろんなお店の従業員には態度が大きく著しく人を不快にさせる人が多くいます。僕はその人たちはプロではないと思います。人の身になって・・・とよく言いますがそういう人たちはそういうことが出来ない人たちだと思います。政治家であれどこぞの社長であれそんな人たちは尊敬に値しない、軽蔑すべき人たちです。そういう人達になら無いように「プロ」になりたいと思います。

人の価値・・・
僕はいろんな事のルールを出来るだけ守ろうとしています。人が見ているとか見てないとか、そういうことでなく出来るだけルールを守ろうとしています。具体的に言うと身障者用の駐車場とかには車を置かなかったり、信号を守ったり、約束したことを守ろうとしたりします。しかし、僕にとってはそれは極当たり前のことで特別なことではありません。格闘技の練習もズル休みした事はありません。寒いからとか疲れているからとか理由にしたくないからです。僕は弱い人間ですからそういうことを理由に休んでしまうと何かと理由をつけて休んでしまうでしょう。本当に体調の悪い時は休みます。でも迷うような時は「やろう!」と思います。先日TVドラマの中で「疲れているときや忙しい時にこそ勉強してください。それを理由にして休まないで下さい。そういう時にこそがんばる、それが人間の価値を高めていくと言うことです。」と言ってました。僕の考えと全く同じです。でも、そんなこと思ってる人ってどれ位いるんだろう?いろんなルールを守り、がんばっていろんな事をやる、そうして自分の価値を高めていけたらいいと思います。価値を高めるには上限は無いのですから・・・。

人の価値 2・・・
此処の所、毎日毎日流れて来るニュース・・・どれもこれも社会のルールを守らず、それが表に出て叩かれている・・・当たり前だよね。こんな人を踏みつけるようなことをして平然と同じ社会でのうのうと暮らしていたなんてそれだけで不愉快です。みんな同じですよ。結局自分の事しか考えてない。自分がこういうことをしたら家族や回りの人達にどれほど迷惑をかけるのか?いい大人がそんなこともわからないんです。欲に眼がくらんでモラルとかプライドとかをなくしてしまったんですね。僕は宗教家でも精神論者でも無いですが人の不幸の上に幸せは無いと思ってます。不正を行い、自分を正当化してそれがまかり通ってしまう社会になってしまったらどうなのでしょう。僕は自分の子供たちにそんな未来を渡したくありません。正しいことを正しいと不正は正しくないと誰もが正々堂々といえる社会がいつまでも続くことを祈るばかりです。これも前述の「人の価値」につながるけど、このような嘘で塗り固めた人生を歩いてる人はそれだけの価値しかないと思います。金で動いた人は金の切れ目が縁の切れ目で去って行きます。嘘をつく人は信用を失っていきます。そういうことが人の価値を下げていきます。それらの事を抜きにして付き合っていける人に僕はなりたいと思います。

心のあり方・・・
僕は筋の通らないことが大嫌いです。残念ながら筋の通らないことが回りには多くあります。身近な生活の事や社会的なこともあります。でも筋の通らないことを承知の上でやっている人がいます。その人は自分でも言っていることがでたらめで筋が通らないことを知っています。やったもん勝ち的な考えの人です。僕の中ではこの手の人を受け止める心がありません。それを受け入れることが大人だとしたら僕は大人ではありません。いろんな人がいるのはわかりますが建前理解しようとしても心では受け入れられません。いい加減な考えに信用が出来ないからです。この手の人は一般的にやることもやらず口だけ出すタイプです。信用していた人に裏切られた時にすぐその人を信用できるかと言われれば僕にはできません。「過去の事にこだわられば何も生まれない。過去の事を忘れて今から先の事を考えるべき・・・」と言われたことがあります。僕は過去の事を清算してから次のことへ行かないとずっとわだかまりが解けないと思います。その辺のところが性格上いい加減に出来ないところです。リーダーとしてもっと広い心でとは思いますが・・・僕の中ではいい加減にすることが広い心では無いと思ってます。人から見たら大した事じゃないことも僕の中では許せないことがあります。

青木智仁・・・
この名前を読んで誰か解った人は何人くらいいるのでしょうか?日本を代表するベーシストです。とは言っても知らない人の方が多いと思います。僕は角松敏生をデビューの頃から聞いていますが曲の中でベースの音を響かせて僕の心をくぎ付けにしたのはこの青木智仁さんでした。ブルース、フュージョン、ジャズ・・・どのジャンルのベースも素晴らしく、渡辺香津美や近藤房之助とも演奏してました。フォーオブアカインドと言うバンドでリーダーも務めていました。青木さんを知ってからはソロアルバムやライブに出かけ、その人柄にまた、ファンになりました。僕がベースを弾くのも青木さんに少しでも近づきたいと思うからでした。既報は突然やってきました。6/12、青木さんの誕生日です。6/24には横浜アリーナの角松敏生の25周年記念ライブでベースを弾くはずでした。49歳、急性心不全だったそうです。あまりに急の事で心の整理がつきません。いろんなべ−シストの中で紛れも無く僕の中ではNO.1ベーシストでした。心からご冥福をお祈り申し上げます。

人とのつながり・・・
僕は試合に行くのが好きです。自分のチームの選手が出ているときも出ていないときも見に行くのが大好きです。なかなか都合がつかず行けないこともありますが少し損をしたような気になります。最近出かけている試合には必ず誰か知り合いがいます。その方々と話をすることも楽しみの一つです。知り合いのチームの選手が出ていると自分のことのように応援したくなります。それは僕の回りにいる人がそれぞれ責任感も常識も有り人柄が良く尊敬できる人達だからだと思います。仕事以外の付き合いができる人達との付き合いは本当に心を通じ合える付き合いがしたいと思ってます。そこにはお互いが相手をバカにすることなく大切に思えることが大事です。どれだけ相手を思っても通じなければ勝手な片思いです。今、僕はチームメイトにも他のチームの人達にも仲良くさせてもらってます。少しずつ知り合いも増えて心から付き合いが楽しいと思ってます。ある人に言われました。「F3の人って結構長いことやってる人が多いですね。」改めて考えたらそうかもしれません。いろんな人と長い付き合いができる事が僕の誇りでもあります。

身体に関すること・・・
長いこと仕事も遊びもスポーツも自分なりにやってきたつもりですが突然の回転性のめまいで倒れてしまいました。原因はわかりませんがストレスとかいろんなことがあるそうです。検査は耳鼻科、脳神経外科、整形外科と見てもらいました。倒れてから日によってめまいが酷い日があったりします。数年前に追突されてむちうちになったことがあります。首がそのときのように痛み出しました。PCなどで調べてみると慢性ムチウチ症が一番近いような気がします。仕事上パソコンや車の運転が多いのですが肩から首にかけての負担が大きく、長い時間やると後が結構大変です。身体を悪くするといろいろできないことへのストレスがたまります。少しずつ治していくようにあせらず治療していこうと思います。怪我も病気もそうですが痛めるときは一瞬ですが治すのには多くの時間やお金がかかります。予防ということにももっと関心を持たないといけないと考えさせられるこのごろです。

身体に関すること 2・・・
書こうかどうしようか迷っていましたが、いろいろ身体を調べてみたところ、原因がわかりました。「頚椎椎間板ヘルニア」が病名です。MRIやX線写真でヘルニアがはっきりと見つかりました。倒れてから3ヶ月過ぎてもめまい、ふらつきは以前あります。PLDDと言うレーザー治療法もありますがリスクが大きすぎてとてもできません。整形外科の先生と相談してリハビリをしばらく続けてみることになりました。厄介なのは日によって体調がバラバラな事。良いときは首から後頭部にかけて重さはあるもののグラグラはしない、雨など降って気圧の変化のある時は静かにしていてもグラグラとめまいが起こります。症状が治まったとしても完全に治癒したわけでは無いので首に負担がかかることをすればまた、いつ同じ症状が出るかわかりません。したがって大好きな格闘技ではありますがもう、スパーリングとかはできません。少々の指導くらいはできても実戦からは引退です。正直やり残した事も山のようにあります。後悔も未練もたらたらです。自分の人生についても考えるようになりました。運動を差し引いても僕は僕の人生を生きていく為にも、まず、身体を治すことを最重要課題としていくこととします。でもいつか戻ることができたらなぁ・・・。

心の授業・・・
先日子供の参観日に行ったとき、授業の中でうれしい気持ちと悲しい気持ちで体内の水分の結晶が形を変えるという話がありました。授業は自分の良いところを書いて紙に貼り、その次に友達の良いところを書いてその友達にそれを渡してそれを貼り付けるという内容でした。友達の良いところを書いているみんなの顔はとても楽しげに見えて、それを渡された友達はそれを見てうれしそうに見えました。うれしいことを聞いたり見たりした時の結晶は形も良く活性化しているそうです。考えてみたら良いところを改めて人に言うなんていう機会はほとんど無いし人から言われたこともほとんど無いなぁと思いました。楽しそうな子供たちを見ていたらこれからは子供たちに良いところを声にして言ってあげようと、そしてチャンスがあれば大人にも良いところは言ってあげられたらいいなぁと思いました。ただし批判的なことやダメだしは逆に結晶の形を崩してしまうそうです。僕の結晶も形を整えるような心の持ち方ができるといいなぁと思いました。

人の信頼を得るということ・・・
僕は普段営業の仕事をしています。営業の仕事で大切なことのひとつに信頼を得るということがあります。それは言葉ではどうにもならないことです。信頼というのは得るのに時間がかかります。「僕のことを信用してください」なんて言ってみた所で初対面の人には何の説得力もありません。では信頼を得る為にはどうしたらいいか?それは仕事でもプライベートでもいい加減なことをせずに誠心誠意取り組むことではないかと思います。言葉遣いや態度はもちろんですが時間に遅れないとか連絡をするとかもそうです。先日ある仕事を請け負った時に代表の人に「今から始めます」と言う報告に伺ったときに来客中だった為、仕事を先に始めてから途中で報告に伺うと「今日仕事で入ることは事前に連絡があったから知ってたよ。まぁ君に任せておけば大丈夫だからね。何も心配してないよ。」と言っていただきました。とてもうれしくてこのような事を言ってもらえるとこれからも丁寧な仕事をしていこうと思います。

自分の居場所・・・
つい先日ある人のブログの中に「私は自分の居場所があって幸せだ」と書いてあるのを見た時この人はなんて幸せなんだろうと思いました。そして僕の居場所ってなんだろうと改めて考えました。仕事上の自分の立場、サークルでの自分の立場、いろんなところに居場所はあります。その居場所が自分の存在を明確なものにしているのではないかと思います。でも考えました。それはもしかしたら僕でなくてもいいんじゃないのだろうか?と。そう考えると僕の代わりはいくらでもいます。もしかしたら書いていた彼女も"今"は居場所が合ってもいつまであるかはわからないんだろうと。そうしたらもしかしたら"今"自分の存在価値や居場所を見つけてそれを幸せだと思う気持ちが大切なのではないかと思いました。僕は今愛する人がいます。僕にとっては自分の愛する人に愛されてることを感じながら自分の居場所を確認することができたらそれが一番の幸せなんじゃないかと思います。

人を愛すると言う事・・・
人を愛する事はなんて簡単でなんて難しくてなんて幸せでなんて苦しいものなのでしょうか?僕は人が生きていく為にはいつも愛が必要だと思います。僕が子供の時は親からの愛があったと思います。僕は自分の子供が生まれた時にも子供の事をできる限りの愛を注ぎました。愛する人ができたときにも自分のことよりも相手の事を大切に思ってすべての事を投げ出してもいいと思えるくらい気持ちを込めました。「究極の愛は好きになった相手の事をすべて受け入れる事」「見返りを求め無い事」言わば片思いでも愛を感じる事ができると思います。なのに見返りを求めてしまう僕は究極の愛にたどり着けません。相手のすべてを受け入れる事もなかなかできません。好きで好きで愛してだけでは現実に気持ちがついていけない事も知りました。でも気づけて始めて次に自分が進む方向がわかることもあります。相手の気持ちを考えながら自分の気持ちとの接点を探りながら求める事も必要です。いつになればうまく人を愛せるようになるんだろう・・・。

身体にメスを入れると言う事・・・
生まれて初めて入院、手術を経験しました。自分の身体にメスを入れることでいろいろな弊害が出る事も実感しました。出来ることなら手術をしないでいたかったのですが手術以外の方法が無く仕方なく行いました。問題のいくつかは、入院する事で自分の担当の仕事先に迷惑がかからないようにしたこと、手術後の状態がやってみないとわからなかったこと、仕事の復帰が遅れてしまったことなどです。特に気持ちでは早く仕事に戻ろうとしても傷やその周辺の痛みが激しく、現実的にはなかなか戻れませんでした。術後最高でも2ヶ月で痛みは治まるよと言われ、見通しがつきましたがそれまではイライラの毎日でした。もうすぐ2ヶ月になります。術後すぐのような痛みは治まりました。運動への復帰も少しずつやっても良いと許可も出ました。ブランクを戻すのは大変ですが気持ちよく身体を動かせるよう運動して行こうと思ってます。仕事関係やサークル関係、小学校のPTAの行事、家族・・・いろんな人に心配と迷惑をおかけしました事のお詫びとお礼を申しあげます。ありがとうございました。

K・Y・・・空気の読めない・・・
先日地元の高校の学園祭があり、式典に参加した時の事ですが式典の中で来賓の挨拶がありました。衆議院議員の挨拶に続いて県議会議員の挨拶がありましたがその中でベテランの議員の挨拶があまりに場違いな事を話していてあきれました。他の議員たちは高校の事について話しておりましたがこの議員は自分の党がいかに私学助成に貢献してるかを話し、俺たちはこんなにしてやってるんだから黙ってろと言わんばかりの発言で会場の空気はしらけているのにもかまわず、壇上ではポケットに手を突っ込み、片手で扇子を出して下品に扇ぎ、見ている者を不快にさせるには十分すぎる態度でした。後日高校の先生からも「あんな発言されるとは思わなかった」との声が出るほどでした。裏話ではこの式典の前にも関係者を怒鳴り散らしていたそうです。この人がどれほど偉い人なのか一般の人は知りません。それだけにその態度や言動で会場にいた人は、なんて横柄で偉そうで空気の読めない馬鹿なんだろうと思ったと思います。この議員が押していた市長候補は市長選で負けました。このようなことの積み重ねが正しい結果をまねいたと思います。この人がどんなに偉くても僕にとっては何の価値も無い人でした。

心の持ち方・・・
毎日いろんなことを考えると不幸な事や幸せな事、心を豊かにするのも寂しくするのも心の持ち方一つで変わってしまうと思いました。お金をいっぱい持っているのに健康でない人、お金は無いのに無茶苦茶健康な人・・・などどちらとも言えないことも多分お互いが自分のほうがとか考えれば幸せを感じる事が出来ます。それは誰でもなく、比較するでもなく、口に出すでもなく自分の心で考える事です。幸せは自分の心が決めるものです。少しだけ神様がチカラを貸してくれるとすれば、一生懸命にまじめに生きている人にある日ふとしたプレゼントをしてくれます。それがくじに当たるとかおつりが多かったとか・・・そんな細かい事も心も持ち方で幸せと感じられるかどうかはそれぞれの人の心です。
どんな小さなことにでも幸せを感じられるような生き方が出来たら幸せだと思います。

山田 泉さん・・・
先日TVを見ていたら「命の授業」の話をしていました。簡単に説明しますと山田 泉さんという方は、養護教諭を長年していましたが乳がんを患い手術などをして教職に戻ったときに子供達の言葉の暴力や態度に意気消沈し、そんな時に限りある命を削りながら子供達に「命の授業」を続けている女性と出会い自分も子供達に命の大切さなどを伝えようと決心し、少しずつ授業をしていました。そんな折病気が再発し、医者に手術をしても、しなくても命の期限は変わらないと宣告されます。命の期限を宣告された泉さんは今出来る事を伝えようと病気の身体でありながら講演を続けています。それをTVで紹介していたときに彼女の言葉や思いに涙が出ました。僕らは普段何気なく思っていることをもっともっと見つめなおして丁寧に大切に生きていかなくてはと思いました。その中で出てきた言葉です。
「生きているという事は、誰かに借りを作る事。生きていくという事は、その借りを返して行くという事。誰かに借りたら、誰かに返そう。誰かにそうして貰ったように、誰かにそうしてあげよう」
僕もこの言葉を大切にして少しずつでも思いが繋がっていくようなそんな生き方を目指したいと思います。

感謝・・・
僕は格闘技を通じていろんな事と関わりを持っていますが、その全ての事に感謝しています。豊橋という片田舎のサークルとして格闘技をやっていますが、近隣の格闘技チームの代表他門下生の方々にも多大なご協力をいただき何とか今までやってこれました。人と人との関係を繋いでいくには信頼や信用が必要です。僕は信頼や信用の出来る人しか付き合いたくないと思っています。それは格闘技から離れても人として付き合えるかどうかだと思います。自分のチームのメンバーも回りにいる人たちもとてもいい人たちばかりです。こんな仲間と同じ目的で同じ時間を過ごせるなんて本当に幸せだと思います。今おかれている環境や状況が恵まれていることに気づかず過ごしてしまいがちですが、ふとしたときに思い出し、心で感じて周りの人に感謝をする気持ちを忘れずにいたいと思っています。

非常識な話・・・
この世の中には対話も会話もしないでチカラのあるものが弱者に対して理不尽なチカラや権力を使い考えや思想を押し付けようとする人がいます。この手の人たちはみんなほぼ同じです。拳銃を持っていていきなり威嚇も警告も無しに撃ってきます。そして急所ははずして重症を負わせて置きながら「お前なんか殺す事はいつでも出来る。それをしないで命だけは助けてやる。だから感謝しろ!」という姿勢や態度です。自分個人では何も出来ないからチカラや権力を組織的に使い、口を出したりする人たちです。そして相手が弱いとなるといい気になって攻め立てるそういう人たちです。自分の不利になる事は正論でも受け付けず、逃げる人たちです。もしもあなたがこのような事をされたら心から感謝できますか?少なくとも僕には出来ません。いつか必ずやり返してやると心に誓い、ずっとそう思っていると思います。こういう人たちは無理難題、言いたい事だけを言ってきます。「ふざけるな。あんたが俺の生活に何かしてくれたのか?」と。いろいろ言うなら自分の言動に責任が取れる範疇で言えって。会話や対話はお互いが歩み寄り協調するところから始まるのにちゃんとした話し合いも無しにいきなり銃を撃つようなそんな事が此処の所、多い気がします。その先にあるものが決して平和的なものでなく、ぎすぎすしたものを作るだけだという事に気付いてない人たちが組織や権力を動かしている悲しい事実があります。広い眼と常識的な心を持ってない人たちが上にいる限り、この非常識な事が続いて行く事はとても残念なことです。

足元を見るということ・・・
自分の今おかれている状況にいろいろな不満を持っていました。想いが伝わらない事が歯がゆくていらいらしたり、やきもきしたり。でもあるときに何気なく毎日普通に出来ていた事が出来なくなり、自分の意思ではどうにもならない事にぶつかりました。そのときになって初めて今までおかれていた状況は決して不満を持つような事ではなく、無くすぐらいなら全然良かった事に気がつきました。自分ではそれが分からなかった。決して粗く、いい加減にしていたわけでは無いが一生懸命過ぎて見えなくなっていたことに気がつかなかった。無くしてからではどうにもならない事、そして気付いたときにはもう何も出来ない事・・・どうしてもっともっとゆったりとした心で足元をちゃんと見ていなかったのだろう。毎日の慣れや緊張感の無い中ではそれは必然かも知れません。だからこそ馴れ合いの毎日に流されず、立ち止まりながら自分の足元をしっかり見て感じながら生きていく事を目指して行けたらと思います。

理不尽な事・・・
毎日毎日、事故、殺人など新聞やニュースに流れない日はありません。先日も秋葉原で壮絶な殺人事件がありました。毎日このニュースが流れるたびに犯人の自己中心的で何でも人のせいにして生きてきた事が分かります。この犯人は、会社への不満があってもそれを直接ぶつけず、何の関係も無い人たちを無差別に殺しました。残された遺族にしてみたらこの犯人が死刑になったところで身内は帰ってこない訳ですから落胆する気持ちは察するに余りある事です。自分が親の面倒を見たり、子供の親になったりしたときにこのような事件の被害者が自分だったらと考えるようになりました。親の面倒を見ることも出来なくなり、収入も無くなり、残された妻や子供の将来まで奪ってしまいます。そして現実にそうなってしまった人がいます。心の傷が一生残ってしまいます。このような事に巻き込まれず、子供や家族が安心して暮らして行けるような社会になる事を祈るばかりです。

最近思う事・・・
最近思うことがあります。自分の体が悪いところが多くなり、チームの中で教える事やスパーリングをやらない(やれない)ことで少し離れたと事からチームをみる事が出来ました。僕の理想は、僕がいなくても自分達で練習をしていてくれる事です。ある時期、僕が声をかけないと何もしないことがありました。僕が練習を休んだり、遅れたりする事でそれぞれがやらなくてはならない事を考え、やれるようになってきています。それと同時に仲間意識が強くなったような気がします。試合のときも、選手の為にみんなが努力し、協力し、個人的としてもチームとしても結束力が高くなっていると思います。それによって試合に対しても積極性が出てきて良い結果が少しずつ出てきました。これからも一人一人がチームも格闘技も大切に思いやっていけばより良いチームになっていけると思います。

本物を見極めるチカラ・・・
最近では世の中で偽装をしているものが多くなり、食品であったり、産地であったり、成分であったりします。偽装と言えば何か着飾っているような感じがしますがそれらはみんな詐欺です。そして詐欺をしていた人たちが当たり前のようにあふれ、ばれたときには言訳し、あたかも仕方なくやったようなことを言います。そしてその殆どが利権が絡んでいてばれるまでの間、莫大なお金を手にしています。自分が儲けるためなら何をしても知ったこっちゃ無いと言う人たちです。本人は、はなから分かって騙しているのですからばれても「あ〜ばれちゃった」くらいにしか思っていません。謝罪を口にする人は口先だけです。心から悪い事を悪い事だと思えないから詐欺をしている訳で、そんな人が心から謝るわけがありません。騙した人にも家族がいるでしょう。騙された人にも家族がいるでしょう。偽装や詐欺で職を失うのも自業自得の人はいいです。しかし被害にあった上、職まで失ってしまう人もいます。その人たちの人生まで責任を取れないような馬鹿がこの国で大きな顔をして暮らしています。人の上に立っても権力欲ばかり強くて責任感の全く無い大人がこども達に教育だの指導などと寝言を言ってます。子供の担任が「学校に望む事はありますか?」と聞いてきました。「本物を見極めるチカラをつけてやってください。」と僕は言いました。「友達も先生も社会も大人に対しても本物を見極め、偽者に騙されないように。」と。これから先も本物だけが全うに生き残っていける世の中になっていくことをと願うばかりです。


チームの一員としての心構え・・・
試合の時や練習の時、当たり前のように人がいて当たり前のように事が進んでいきます。練習の時は、誰かが鍵を開けてくれて、誰かが相手をしてくれて、誰かがミットを持ってくれて・・・試合の時は誰かが手続きをし、準備をし、マッチメークして、誰かが車に乗せて行ってくれたり、セコンドについてくれたり、ビデオを撮ってくれたり、試合をしてくれる相手がいてくれて・・・そのどれか一つでも欠けていたらもしかしたら練習も試合も出来ないかもしれません。当たり前の事を当たり前だと思わずに全ての事にはその裏に表には出ない苦労や努力をしている人たちがいることを決して忘れないでいて欲しいと思います。格闘技には技術も心も必要です。技術は時間をかければ誰でも身につけることが出来ます。見せ掛けだけの技術であっても出来ます。しかし心は、見せ掛けではどうにもなりません。感謝できない人はそれ以上に心が向上することはありません。技術よりも心が大切だと言う事を僕も含めてチームのメンバーにも伝えていきたいと思います。

死というもの・・・
この7月に15年飼っていた犬が亡くなり、その後、伯母さんも亡くなり、死と言うものを改めて考える機会がありました。亡くなる前の衰弱していく姿はそれぞれが覚悟をするのに十分なほどでしたが、過ごしてきた時間や思い出が多いほど悲しみも大きく残念な気持ちになりました。僕の家庭は比較的親戚が少ないのと年齢の若い世代が残っているので身内の葬儀とかは久しぶりで親戚一同が集まるのもこんな時ばかりになってしまいました。それぞれの人生は幸せだったのか?思い残す事は無かったのか?僕は順番から行けば父や母を看取る立場です。その時に悔いのない時間を提供してあげられるのか?などいろんな事を改めて見つめなおす事が出来ました。自分の人生も出来る限り悔いのない生き方が出来たら終えるときに幸せかも知れません。子供たちにとっても死というものを目の当たりにして少し想いが変わってきているようです。病気とか出なく、寿命を全うした人生はそれだけで価値あるものだと思いました。

まだまだ・・・
7月末に仕事とサークルを辞めて実家に戻っていった脇村さんにお疲れ様の意味を込めてチームからトロフィーを贈りました。その時にトロフィーや箱にみんなで贈る言葉を書き込みました。その時に僕が書き込んだ言葉が「まだまだという生き方をしてください」というものです。脇村さんに贈りつつ、自分自身にも言い聞かせる言葉です。自分で何か行動を起こす時、仕事であったり、趣味であったり、サークルの練習であったり、ここまでと思うのは自分自身であり、そこで満足せず、「まだまだ」と思うよう心がけています。試合に勝っても「まだまだ」負けても「まだまだ」練習で疲れていても「まだまだ」。脇村さんは最後の練習で16人を相手にスパーリングをやり遂げました。多分、途中で「もう辞めよう」とか「もう出来ない」と思ったかもしれません。でも「まだまだ」と最後までやり遂げました。僕も苦しい時や踏ん張りたい時に自分自身に「まだまだ」と言い聞かせます。サークルの選手達にもいろんな意味で贈ります。「まだまだ」


あたりまえ・・・
毎日の生活の中で何も考えずあたりまえに過ぎていく事があります。起きてご飯を食べ、仕事をしてお風呂に入り寝る。そんなあたりまえの事が出来なくなったりすることへの不安を普段は気にも留めません。先日、姪っ子がダンスの最中に倒れ、心配停止状態でAEDにより、一命を取りとめました。おかげさまで脳へのダメージも少なく生活には支障が無いほど回復もしました。このことがあってからいろんな事を考えました。姪っ子の事も姉の事も家族の事もサークルのメンバーの事も知り合いの事も・・・。朝起きられる事、ご飯が食べられる事、仕事が出来る事、風呂に入れる事、眠れる事、言葉が話せる事、聞く事が出来る事、手足が動く事、眼が見えること・・・一つ一つのあたりまえの事が出来ている事がそれだけで幸せなことで何気ない事でも大切に考え、感謝する気持ちを持ち続けていたいと思います。

最近思うこと・・・
しばらくこの見聞録も休んでいました。書く事が無かったわけではなく、忙しさにかまけてさぼっていたのかも知れませんが、本当にやらなくてはいけないことが多すぎて・・・。書く限りはゆっくりと時間をかけて書きたいなと思っていました。この一年ほどでバンドを2バンド掛け持ちでやることになり、そちらのバンドは名古屋で活動し、ライブも比較的曲数多目なのでライブが近づくと毎日が練習、練習でその中で仕事もして格闘技もして、充実しているといえばそうなのかもしてませんが、基本的に当てにされてしまうと出来る範囲ならば出来る限り協力しようという性格的なことが自分を動かしていると思います。責任の持てないことは請け負わないのですが、受ける限りは責任を持ってやりたいと思います。僕のような者でも当てにしてくれている人がいるということを喜ばしく思います。少ない時間の中で出来る事を精一杯やるのが僕の生きがいなのかも知れません。

ジェネレーションギャップ?・・・
最近ふとしたことから映画の話になり、ブルース・リーの話をしたらメンバーの多くがブルース・リー映画を知らないと聞き、とてもショックを受けました。何事も無く当たり前のようにブルース・リー映画はみんな知ってると思っていました。僕らの世代はブルース・リーの映画を見て空手を始めた人が殆どでした。ブルース・リー映画は、「燃えよドラゴン」「ドラゴン怒りの鉄拳」「ドラゴン危機一髪」「ドラゴンへの道」「死亡遊戯」など多くありますが、時代が早すぎた感はありますが、燃えよドラゴンでは、総合用グローブも出てきますし、格闘シーンだけでも十分楽しめます。ジャッキー・チェンは、さすがに知らない世代はいないと思いますが、ジャッキーのコミカルかつスピードのあるカンフーに比べて、ブルース・リーのジークンドーは、一撃必殺の威力でした。DVDでも出ているかも知れませんのでまだ、見てない人は、是非見てみて下さいね。

毎日の暮らし・・・
何気なく過ごしている毎日の中でなくしてみて初めてその存在の大きさに気付かされることがあります。僕は今年4月に息子が大学に通う為、一人暮らしで家を出て、八月には母を亡くしました。息子は、長い休みになれば帰ってきますが、母とは永遠の別れとなりました。6人家族が5人になり、大学があるときは4人家族になっています。普段同居していた家族が居なくなるととても寂しく、空間に戸惑ってしまいます。年老いてからの母は、入退院を繰り返し、病状は良くは無かったですが、泣き言を言わない、いつも明るい母でした。特に亡くなる10日位は、治療らしい事が出来ないのにしっかりした意識の中で泣き言も言わず、家族を心配させまいと気遣い、最後まで明るく振舞いました。亡くなる前夜にも「明日また来る」といい帰る家族に「じゃあね、バイバイ」と手を振りました。それが母の最期の言葉でしたが、あの世に行くのにもバイバイと手を振って明るく行ったような気がします。小さくて弱弱しい母でしたが、「最期はこういう風に亡くなるんだよ」と教えてもらった気がします。来年は迎えられないかも知れないと言っていましたが、今思うとそう思うくらい身体は悲鳴をあげてたのかと思います。日々の生活の中でふと気付かずにいることにも冷静に気付けるような生き方が出来たらいいと思います。

特別ではないこと・・・
最近ごく当たり前のことができない人や事によく出会います。1. メールをしても返事をしない人・・・多分それはすべての人にではなく、仕事関係や彼女にはちゃんと返事ができる普通の人たちが返事をしないということです。人を見て返事をしているのだとしたら、彼らにとっては僕は返事をしなくてもいい対象だという事ですね。2. 人に迷惑をかけても尻拭いのできない人・・・私たちは人と人とtの付き合いの中で相手との関係を悪くしてしまうことがあります。人だから感情もありますから。しかし世の中には、平気で人を裏切るようなことをしておいてちゃんと説明も無く、謝ることもしない人がいます。どうしてそんな人と関係を続けていけますか?あまりにも非常識・・・付き合っていくうえでも親しき仲にも礼儀は必要です。ましてや失礼この上ないことをしても、その手の人は感じていないのだと思います。仮に感じていても逃げるばかりで正面から立ち向かわない人です。信用ができない人との信頼関係は築けません。特別なことではないんです。人が人として社会で生きていくために必要な常識・礼儀の範疇です。特別ではないことをできる人が、特別にならないように祈るばかりです。